かわいひでとし日記
令和3年8月10日      昭和20年、夏      先輩たちが残してくれたもの
  
毎年この時期になると戦争についての話があちこちで取り上げられる。

自分はもちろん実際に経験した訳ではないのだけれど、

随分たくさんのあの戦争に関する本を読んできたので、

まるで実際に経験したかの様にあの時の事を「思い出す」。


この時期に取り上げられる話の一つに、真岡郵便電信局での出来事が有る。

日ソ不可侵条約を突如破棄してソ連が参戦し、満州や樺太、千島に攻め込んできた。

既に武装解除を進めていた日本軍だが、現地の司令官の判断によってソ連に応戦し、

北方領土などは占領されたものの、北海道は守り切ったのだった。

それが無ければ今の日本は北海道の北半分がロシア領になっていたかもしれない。


当時樺太(サハリン)の南半分は日本領で、多くの日本人が住んでいた。

樺太南部に有る町、真岡、そこの郵便電信局で起こった若い女性たちの自決の話。

ソ連が攻めてくるので、女性は避難する様にとの命令が出るが、

最後の最後まで通信を死守する為に(当時は人間の手作業で電話を繋いでいた)

電話交換手の女性たちが青酸カリをポケットに忍ばせて最後まで交換業務を行ったという事件。

今の平和ボケした人間からしてみれば、

敵が攻めてきたら降伏して捕虜になれば命は助かる、

くらいに思うかもしれないが、当時はそんな状況ではなかった。

男は殺され、女は凌辱され、という事が行われたのだ。

従って、青酸カリを持って最後の最後には自決する、という事なのだ。

彼女たちは交換台にしがみついた姿勢で亡くなっていたそうだ。


交換手の女性の最後のメッセージ

「皆さん、これが最後です さようなら さようなら」


このエピソードは戦後しばらくたってから映画化されました。

しかし、ソ連の圧力によって上映は見合され、細々と自主上映という形のみで上映されたそうです。

「樺太1945年夏 氷雪の門」という映画で、映像が劣化しているものの、今でもDVDなどで見る事は可能だそうだ。


真岡郵便電信局事件についてウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B2%A1%E9%83%B5%E4%BE%BF%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E5%B1%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

https://ja.wikipedia.org/wiki/真岡郵便電信局事件



3.11の時、南三陸町の防災無線で町民に避難を呼び掛け続け、津波の犠牲になった町職員の若い女性が居た事を思い出します。

最後の最後まで、命をかけて職務を遂行するのはどうしてでしょう。

責任感でしょうか。

もちろんそれも有ると思います。

でもそれだけではなく、意地だったり諦めだったり、怖さの裏返った勇気であったり、

今の平和ボケした人間には想像も出来ない様な事です。

本当に、本当に、みなさん、我々の先輩たちが、この国を築いてくれて、守ってくれた事に感謝しなければなりません。

今、のほほんと生きている我々は昭和20年に起こったさまざまな事を、良く読んで、心にとめておかなければならないと思います。



戦争の記憶


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